Citizine

20代web編集者の雑記

今日の読み物3ー7月23日

ニュースの中でも、芸能ネタは学生時代に意識してスルーするようになってからアンテナがほぼ反応しなくなっていたけれど。 友人がコメントをつけてリツイートしていたこのトピックは、ちょっと気になってしまった。

headlines.yahoo.co.jp

大御所の方々がどのように仰せになったのかは知らないけど、こういうことで配慮せざるを得ない文化(社会)になっている日本を見ると、残念な気持ちになる。

日本には(にも)、確実に経済的な格差が存在している。 けれど、米国などいわゆる格差社会と違うのは、その格差が表向きはないことになっている点だ。

もちろん、公立小学校の給食費未払いの話なんかはニュースにもなっているし、自身の周りでも、保育園で子どもに着せる服や親の身なりからその家庭の経済状況をあれこれ推測するみたいなことがよくあったりする。 けれど、家で妻がそんな話をしてくるときも、いわゆるタブー的な扱いの話しぶりになっている。

他者と比較して、自分が経済的に豊かでないように振る舞わなければならないし、逆に他者よりも貧しくないように振る舞わなければならない。 日本の人には、そんな前提がインストールされているんじゃなかろうか。昭和時代の、総中流社会みたいな思想の名残なのかもしれない。 そう考えると、件のニュースもなんとなく分かる気がする。

けれど、ここで剛力彩芽さんが謝罪や過去の写真の削除をしたことが正しいのかどうかは疑問だ。 確実に存在する格差をないことにするのは、現実に目をつむることでもあるし、現実を歪んだ認識で見ることでもある。

豊かでない(と認識している)身としては、どのような世界があるかを知らなければそこに行くことすらできない。現状をどう改善していくかと考えている場合、自分と違う世界を知らなければ、目印や目標といったものを立てることができない。 月並みなたとえだけど、「海賊」や「海賊王」という概念が脳内に存在していなければ、ルフィは旅に出ることすら思い描けなかった。そういうことだと思う。

だから、豊かな世界とはどういうものかを知ることは、実は貧しい人にとって必要なことだったりする。それをある種の妬みの視線でとらえるのか、目的地を見せてくれてありがたい、ととらえるのかはその人次第かもしれない。

仮に今は持たざる者だったとしても、持つ者の姿に素直に憧れを持ったり、悔しさのようなものを感じられたりする人もいる。 格差がないことにするというのは、そういう将来や人生を彩る芽すら摘んでしまうことになる(もちろん持つものが幸福かどうかはまた別の話なのだが)。

そういう意味で、このニュースはすごく残念だと感じた。 この風潮があと10年くらいしても変わっていなかったら、いよいよ日本は厳しいと思う。